「世の中は夢か現か、現とも夢とも知らず、ありてなければ」
ある日、なんとなくネットサーフィンをしていたとき、新古今和歌集のサイトを見つけました。
いくつか読んでいるうちに、この一句がなぜか心に引っかかりました。
そもそも新古今和歌集って何なんだろうと思って調べてみました。そしてこの歌は約800年前に藤原定家という人が詠んだものだそうです。
その後、仕事中のちょっとした空き時間に、なんとなくこの一句のことを思い返していました。
意味は完全にはわからないけど、私なりに「あるようでない、ないようである」みたいな感覚をこの人は感じていたのかなと思いました。
この人はきっと何かを見て、何かを思って、それでこの歌を詠んだんだろうなと想像しました。
そして私は、いくつか読んだ中でこの歌が気になった。
なぜ気になったのかというと、まず雰囲気が綺麗で、美しいと感じたからです。
シンプルですが直感的にそう思いました。
響きも少し不思議だけど、どこか共感できるような気がした。
それを美しいと感じた自分がいるのも、ちょっと不思議でした。
美しいものがそこに「ある」んじゃなくて、それを美しいと思う「心」があるだけなのかもしれないな、とも思いました。
なんだかよくわからない感覚です。
たとえば、玄関とかトイレに花が飾ってあったとしたら、綺麗な花がそこにあるという事実があり「この場所にこの花を飾ったら素敵だな」と思った誰かの感性がまずあって、見る人もそれに共感する土台があり、それを美しいと感じるのだと思いました。
人の持つ美意識の凄さを感じます。真善美というものでしょうか。
日常を思い返すと目的を持って日々忙しく活動しています。それももちろん大事なことだと思います。
でもその活動は、よく考えたら、いろんなところに花をポイポイ置いているみたいなことかもしれないな、と思いました。
花を置くことが目的になってしまっていて、その意味や感じることを忘れているというか。
忙しいとついそうなってしまうのは当たり前だと思います。
だからこそ自分の行動に美意識を持つことが大切だと思いました。
美意識かどうかは分かりませんが日常の中で、思い返してみると、「なんとなく気に入ってるもの」がたくさんあるなと気づきました。
音楽とか、風景とか、写真とか、人とか。うまく言えないけど、そういうのってちゃんと感じていたいなと思いました。それ自体が自分の中の美意識というか。
一つひとつ、そういう「なんとなくのお気に入り」というものが自分の中の潜在的な美意識だと思いました。
同時にたくさん行動することも大切だけど何もせずに身の回りの事に対して何かを感じることのできる情緒みたいなものを自分の中に育てていかないといけないなと思いました。
昔の人は、今よりもっと、何かに対して思いを巡らせる時間があったのかもしれません。
今は、ちょっとでも時間が空くとスマホを見て、すぐに暇を埋めてしまいます。
でも、そうじゃなくて、何かを感じて考える時間って、やっぱり大事なんだなと、この一句を通して思いました。
ありがとう、藤原定家さん。
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